張ダビデ – 金持ちとラザロのたとえ


1. 永生を決定する地上の生き方

ルカの福音書16章に記録されている二つのたとえのうち、前半に登場する「不正な管理人のたとえ」と、後半に続く「金持ちとラザロのたとえ」は、密接な関連性を持っている。その連続する教えを深く探ってみると、イエス様が私たちに、この地上を生きるうえでどのような方向性と態度を取るべきかを示しておられることがわかる。特にこの物語を通して私たちは「愛と憐れみを施す生き方の重要性」と同時に「二つの世界(現世と来世)の存在」を深刻に黙想するよう促されるのである。張ダビデ牧師も複数の説教を通じて、この地上に生きながら私たちが神の御心に従って賢く行動し、貧しい人や弱い人に寛容と愛を施すことこそ神の御心であると強調してきた。

まず前半の“不正な管理人のたとえ”(ルカ16:1-9)を簡単に振り返ると、主人は管理人が財産を浪費していることを知り、彼を呼び出す。管理人は自分の将来が危うい状況で、主人に借金をしている人たちの負債を減らしてあげることで、人々に好意を施す。表面上は、不正な手段で経済的な損得を操作したことは確かに正しくない。ところが主人は、この管理人の行動を「賢い」とほめるのだ。このたとえに対するさまざまな解釈はあるが、イエス様がこの例え話を通して強調しておられる核心の一つは、「この地上で与えられた財産をどのように使うのか」ということである。つまり、お金そのものを所有しているかどうかよりも、神様が私たちに許してくださったものを他者と分かち合い、施すことが賢明な態度なのだと教えているのだ。聖書は、私たちが持っているすべては根本的に「神のものであり」、私たちはただの管理人(スチュワード)にすぎないことを繰り返し思い起こさせる。管理人が最終的に与えられた「限りある機会」を逃さずに賢く活用したように、私たちもこの地上で神が与えてくださった「機会」と「時間」と「財」を有効に用いて、貧しく困っている人々に施すべきだという教訓につながるわけである。

このたとえ話が終わるとすぐ、「金持ちとラザロのたとえ」(ルカ16:19-31)が登場する。これは全く無関係な別の逸話に見えるかもしれないが、「富んだ者として、または神の民として、この地上をどんな態度で生きるべきか」に関する延長線上のメッセージと理解できる。本文に登場する金持ちは紫の衣と柔らかい麻布をまとい、毎日豪華な宴会を楽しんでいた。一方でラザロという物乞いは、体中に腫れ物があり、金持ちの食卓から落ちる屑でなんとか腹を満たそうとする極度の貧困にあえいでいる。犬が腫れ物をなめるほど惨めな状況だ。そんな全く異なる姿で地上を生きていた二人も、やがて両方とも死を迎える。そこから驚くべき逆転が起こる。ラザロはアブラハムの懐(いわゆる天国)に入り、金持ちは陰府(地獄)に落ちて苦しみを受ける。

このたとえ話は「二つの世界の存在」—現世と来世(死後の世界)が明確にあることを示している。イエス様は人々に、永遠の視点で現在の人生を見るよう繰り返し教えておられる。私たちの目で見て体験している地上の人生がすべてではなく、死後に続く永遠の世界が存在するというのだ。これはキリスト教が強調する核心の教えであり、この地上での生き方があの世界での生き方に影響を与えることを聖書は何度も語っている。ヘブライ書9章27節には「人間には一度死ぬことと、その後に裁きが定まっている」とあり、伝道者の書12章でも「塵(ちり)は元の土に帰り、霊はこれを賜った神に帰る。それまでに造り主を覚えよ」と呼びかける。張ダビデ牧師はさまざまな説教の中で、「目に見える現実だけに焦点を合わせてしまうと、永遠のものを見失いやすい」と強調し、「信じる者は天国を望みつつ生き、この地上の生を通して永遠にふさわしい実を結ばなければならない」と力説する。

金持ちとラザロの物語は、自分を神の民だと称する者たちに対する警鐘でもある。金持ちは地上で豪勢で豊かな人生を送ったが、死後は陰府で苦しみを味わう。疑問が生じる。「なぜ金持ちは地獄へ行ったのか?」「このたとえ話は『貧しくなければ天国に行けない』という意味なのか?」もちろん聖書は、貧しい人が必ず天国に行くとか、金持ちは無条件で地獄に行くとは言っていない。ヨブ記のヨブは信仰深かっただけでなく多くの財産を持っていたし、アブラハムも富んでいた。しかし彼らが罪を犯して地獄に落ちたわけではない。ゆえに重要なのは「物質そのもの」ではなく、それに対する私たちの態度や心、そして「私たちに任された立場で『分かち合いと愛』を実践しているかどうか」にあるという結論に至る。

ルカ16章では、「金持ちが自分の家の門前にいた極貧者ラザロをまったく世話しなかった」という現実が強調される。距離は非常に近い。ラザロは金持ちの門前まで来ていたのだ。それなのに金持ちは彼を無視し、紫の衣と柔らかい麻布の服に身を包み、宴会に夢中になっていた。この金持ちの姿は、神の恵みと御言葉を豊かに享受しながらも、その祝福を分かち合おうとしない「霊的自己中心性」を持った信者になり得ることを示唆しているともいえる。このとき「ラザロ」という「物乞い」は象徴的に、信仰に飢え、御言葉に渇いている人々、あるいは物質的・霊的に助けを切実に必要としている人々を表しているとも解釈できる。張ダビデ牧師は、信者が富(物質的豊かさであれ、御言葉の豊かさであれ)を享受するようになったなら、その次の段階として必ず「分かち合いと仕え」を実践しなければならないと繰り返し説く。ラザロを無視した金持ちの悲劇は、結局、この地上で享受する祝福や賜物が、ただ自分の「宴会」のためだけに費やされるとき、最後の審判の前でどれほど虚しく恐ろしい結果を迎えるかを端的に示しているのだ。

ラザロは死後、「御使いたちに連れられてアブラハムの懐に入れられる」。これはユダヤ人が「最も祝福された状態」あるいは「天国」を描写するときによく用いる表現である。一方で金持ちは「陰府で苦しみながら目を上げて」アブラハムとラザロを見る。そしてこう懇願する。「父アブラハムよ、どうかラザロを遣わして、この苦痛を少しでも和らげてください。さらに私の兄弟たちにもラザロを送って、この場所に来ないよう悔い改めさせてください」と。しかしアブラハムはきっぱり言う。「彼らにはすでにモーセと預言者たちがある。その言うことを聞くがよい」。旧約聖書全体、すなわちモーセ五書と預言書にすでにメシアと永遠の世界、そして正しい者の道が明確に示されているという意味だ。「もし彼らがその御言葉を聞かないのなら、たとえ死人が生き返って話したとしても信じないだろう」という結論で物語は終わる。

実際、新約聖書を見ると、イエス様がラザロ(マルタとマリアの兄)を死から生かされたとき、これを目撃した多くの人はイエスを信じて従うようになったが、大祭司たちとパリサイ人たちはかえってイエスを殺そうとする陰謀を強化した。これは「奇跡や超自然的出来事が、そのまま人の心を変えるわけではない」ことをよく示している。その奇跡を通して神を信じようとする人は信仰を得るが、すでに心がかたくなな人は、奇跡を見てもますます強情になる。イエス様は「真の回心は御言葉をもって罪を悟り、悔い改めて方向転換するところに生じる」と教えられる。言い換えれば、人にはすでに十分な「御言葉の証拠」が与えられており、それを聞いても心が開かれないなら、より驚くべき奇跡や徴が起こっても悔い改めないということだ。

この場面から私たちは、終末に臨む裁きと同時に「すでに与えられている御言葉の光」を思い起こすことができる。イエス様は「わたしは道であり、真理であり、いのちである」(ヨハネ14:6)と宣言され、弟子たちに向かって「わたしは住まいを用意しに行く。それはあなたがたのために天国への道を開くためであり、そこでまた再会する」と言われた。それでもなお、人々はこの地上の生活に没頭し、永遠をおろそかにしがちである。金持ちとラザロのたとえは、単に「金持ちは地獄へ、乞食は天国へ行った」という単純な図式にとどまらず、私たちがどんな態度で地上の生を送り、神様が期待される「正義と憐れみ」をどれだけ実践するかによって、最後の運命が大きく変わり得ることを厳粛に語っている。

特に張ダビデ牧師は「神の働きを担う人々、すなわち牧師、宣教師、神学者、平信徒リーダーなどは皆『金持ち』なのだ」という点をしばしば指摘する。世間で言う物質的豊かさだけではない。たとえば聖書の御言葉、神学的リソース、信仰の自由、礼拝環境、豊かな説教と交わりなど、霊的リソースをたくさん持っているならば、それはすなわち霊的に裕福だということだ。しかし、目の前にラザロがいるのに無視し、自分だけの世界に閉じこもって御言葉と恵みを独り占めするなら、その結果は金持ちと同じになり得る。だからこそ「私たちに与えられている恵みや御言葉、知識や教理を正しく分配し、分かち合わなければならない」という教えは、今日の教会と各個人にとって依然として有効な警鐘である。

本当に神の御心を抱くならば、目の前にいる「ラザロ」を無視することはできない。ラザロがただ食事にありつけない状態なのか、霊的に飢えているのか、あるいは苦境に置かれているのか、人によって状況はさまざまであろう。しかし確かなことは、私たちの周囲には助けを必要とする人がいるということだし、私たちは彼らに近づかなければならないということだ。イエス様は「最も小さい者のひとりにしたのは、わたしにしたのだ」(マタイ25章)と教えられた。羊と山羊のたとえでも、「飢え、渇き、裸、病の状態にあった人に対して何をしたのか」が裁きの重要な基準だと述べられる。これを通して、今この瞬間に私が神の御心を抱いているのか、それとも私もまた宴会ばかりを眺める者なのかを真剣に吟味しなければならない。

このたとえ話においてもう一つ重要なのは、「死後には運命を覆す機会が与えられない」という事実である。地上で縛れば天でも縛られ、地上で解けば天でも解かれるという御言葉(マタイ18章)が指し示すのはまさにこのことだ。アブラハムは「あなたがたと私たちのあいだには大きな深淵があって、ここからあなたがたのところへ渡ることも、あなたがたがここへ来ることもできない」と語る。つまり地上で悔い改めて方向転換しなければ、あちらの世界に行ってからではもう遅いということだ。私たちがよく考える「死ぬ直前に悔い改めて救われればいいじゃないか」という安易な態度は、聖書の教えの前では非常に危うい考えになり得る。いつ死ぬかわからない人間が、その瞬間を逃してしまえば永遠の決定を誤ることにもなりかねないからだ。

ゆえに教会は常に「福音を伝えること」に力を注ぐべきである。これは真の愛の行為である。永遠の死後の世界と神の裁きを信じるからこそ、信じない人々に「悔い改めて福音を信じなさい」と伝えずにはいられないのだ。同時に、信じる者同士も互いに励まし合い、信仰を持ち始めたばかりの兄弟姉妹に御言葉を分かち合って、彼らが霊的に成長できるよう絶えず教え助けなければならない。張ダビデ牧師は教会が決して自己満足にとどまることなく、福音書と宣教書から確認できる「教え(弟子とし)、宣教する使命」を積極的に実行すべきだと再三強調している。そこで重要な道具の一つが「書物(キリスト教書籍)の分かち合いの働き」である。豊かな教会や神学校、または信仰共同体がある地域で余っている資料を、まだ御言葉や良書が決定的に不足している場所に送って霊的糧を提供すべきだというのである。これは現代の教会が実践すべき「現代版ラザロ支援」の一形態ともいえるだろう。

金持ちとラザロのたとえが教える第一の大きな教訓は、「私たちは皆旅人であり、死後に永遠の世界があることを必ず覚えていなければならない」ということである。聖書の教え、福音書のイエス様の言葉、使徒たちの伝言は一貫して「人間には一度死ぬことと、その後に裁きがあるので、この現世の生を通して永遠の準備をしなさい」というメッセージを含んでいる。私たちがどれほど高慢になり、安易になりやすいかを省みるとき、このメッセージが私たちの信仰にどれほど切実に必要かを痛感させられる。そして第二の教訓は、「私たちが持っているものを分かち合って生きるべきだ」ということである。何も財産だけに限らない。御言葉、賜物、知識、才能など、神様が私たちに許してくださった豊かさがあるなら、その祝福を自分だけで消費したり、自分の教会や自分の集まりの中だけで使い果たすのではなく、門の外のラザロを顧みるべきだと聖書は語る。張ダビデ牧師は、これこそが「福音的生活の証」であり、「天国の世界観を持つ者が必然的に示すはずの姿」だと強調する。

さらに言えば、このたとえで金持ちは「私の舌を冷やしてほしい」と懇願している。ヤコブの手紙3章では「舌は火であり、体全体を汚し、生の車輪を焼き尽くすもので、その火は地獄から出ている」とまで言われるように、舌は罪を犯す核心的な道具になり得る。金持ちの「舌」は現世でどのように使われていたのだろうか。ラザロを蔑み、神の御心を歪め、自分の楽しみや誇りばかりを語ってはいなかっただろうか。肝心のラザロの存在を無視し放置していた金持ちは、死後になってようやく「舌が乾ききる苦痛」を味わうことになる。これが象徴的な表現であろうと現実的描写であろうと、大切なのは私たちの日常で「舌の役割」がいかに重要かということだ。神の人は舌によって誰かを生かすこともできるし、舌によって誰かを殺すこともできる。苦しむ人に慰めの言葉をかけ、その人を助けることもできるが、非難やののしり、嘘で傷つけることもできる。金持ちの舌は地上でラザロに愛を示す言葉、あるいは具体的な援助を指示する言葉を全く発しなかった。これを振り返りながら、「今の私の舌は神様が喜ばれる方向へ動いているだろうか?」と自問する必要がある。

一方で「金持ちとラザロ」の物語を通して、神様が「公平である」という真理を再確認することもできる。地上で金持ちが良いものを受けていたとすれば、ラザロは苦難を受けていたから、死後は逆転してラザロが慰められ、金持ちは苦しむ(ルカ16:25)。これを単純に「公平」という物差しだけで解釈するにはやや難があるが、神は「世の論理とはまったく異なる方法」で歴史を導かれることを暗示しているとも言える。人間の目から見れば、いまの現実が不公平に見えても、究極的には神がすべてを正しい判断で裁かれる。「善をもって悪に打ち勝ちなさい」(ローマ12:21)という御言葉のように、この世のさまざまな不条理や矛盾に直面しても落胆しない理由は、最後に神様が完全に報いてくださると信じるからだ。その事実を信じるからこそ、ラザロのように苦難を受ける人も最後に希望をもって耐えることができ、金持ちのように地上で豊かな人も、高慢にならずにへりくだって自分を省み、他者に施すことができるのだ。

実際、金持ちが願った内容—「ラザロを遣わして兄弟たちを悔い改めさせてほしい」—は、一見すると兄弟たちのことを思いやる行動のように見える。だが、「すでにモーセと預言者たちの言葉が与えられているのだから、それを聞くべきだ」というアブラハムの答えが示すとおり、「奇跡ではなく御言葉を信じる信仰」が本質なのだ。今日でも多くの人が、奇跡や徴だけを追いかけ、実際に御言葉が宣べ伝えられ、教えられる場にはあまり興味を示さないという場合がある。しかし真の信仰は「徴を見て生まれる信仰」ではなく、「御言葉を通して生じる信仰」なのである。イエス様はヨハネの福音書のさまざまな箇所で徴を行われるたびに「あなたがたは徴を見なければ決して信じないのか」(ヨハネ4:48)と嘆かれ、「御言葉を信じる者が幸いだ」と宣言された(ヨハネ20:29)。張ダビデ牧師もまた、奇跡中心の信仰ではなく、御言葉中心の健全な信仰を持つべきだと繰り返し強調している。というのも、徴は一時的で補助的なものであり、御言葉は永遠だからである。御言葉を基礎とした信仰は、嵐が吹き困難が襲っても揺るがない。

私たちが今、「死人の中から甦った人」を必死に求めるのではなく、すでに手にしている「聖書」を開き、その中に込められた福音のメッセージを正しく聞いて従わなければならない。これこそが地上からあの世(天国)へ移る唯一の道であり、「管理人の知恵」を実践する方法である。地上に縛りついていたもの、たとえば物質的執着、利己的野心、人を裁き憎む心などを解き放ち、代わりに愛と分かち合い、寛容と謙遜を結びつけることこそ、天国の価値観を所有した姿だと言える。そして私たちがこのような生き方をするとき、神の国はすでにこの地上で部分的に始まる。こうしてこの地上で神の国を準備する人は、死後の永遠の国でも豊かな報いを得ることになる—これが金持ちとラザロのたとえが伝える核心メッセージである。

私たちはこの教えを単に頭で理解するだけでなく、実際の生活で適用しなければならない。もし神様が今日、私に物質的豊かさを許しておられるなら、周囲のラザロに分かち合う心があるかを問うてみよう。自分が霊的に豊かだと思うなら、あるいは神学的知識が多いと思うなら、その知識によって誰を教え、誰を立ち上がらせているかを振り返ろう。もし私自身がラザロのように貧しく飢えているならば、神の前にやみくもに不平を言うだけでなく、「なぜこの道を通らせているのか、神様は何を悟らせようとしておられるのか」を見極める必要もあるかもしれない。しかし聖書ははっきりと、この地上で低くされ貧しいままでいながらも神を誠実に仰ぎ見る者に「天の祝福」があると希望を告げる。なぜなら神は公正であり、最後の裁きの日に真実に報いてくださる方だからだ。

張ダビデ牧師の説教でも「神様は最後の日に各人の労苦を決して忘れられない」と繰り返し語られてきた。「冷たい水一杯を与えたことさえも主は覚えていてくださり、報いてくださる方である。ましてや私たちが魂を生かそうと福音によって助け、御言葉によって仕え、物質によって共に担う労苦を、主がご存じないはずがない。この地上で全部の報いを受け取れなくても、あの天では決して無駄にはならない」というのが主要な強調点だ。そのような確信があるからこそ、私たちは救済や宣教、教育事業など多様なかたちで隣人を顧みる働きに励むことができる。たとえば「ブックストア(書籍)事業」という具体例にも見るように、一冊のキリスト教書籍が、霊的に渇いている誰かにとっては救いのきっかけになり得る。すでに福音の豊かさを享受している者たちが「本を集め、分類し、発送する労苦」を通じて、貧しい人々が霊的資源を得るなら、その労苦は天に積まれる宝となるはずである。


金持ちとラザロのたとえは、
1)永遠の世界、すなわち死後の裁きと天国・地獄があるという事実、そしてこの地上での生き方がそれを左右するという点を強烈に思い起こさせる。
2)次に、この地上で「金持ち(霊的・物質的豊かさ)」を手にしているならば、必ず分かち合い施す生き方をしなければならないということを語る。金持ちになることは、お金があるとか、教会で高い役職を持っているとか、聖書をたくさん読み神学的知識が豊富だとか、さまざまな形を含む。しかしそのいずれであっても、「与えられたものを隣人と分かち合わずに自己満足にのみ浸るなら」、その結末は金持ちが辿った道と変わらないかもしれないと警告する。そしてそれは、そのまま不正な管理人のたとえでイエス様が「自分の所有だと勘違いせず、貧しい者のために使え」と仰った言葉にも直結する。
3)最後に、金持ちが懇願した「私の兄弟を救うためにラザロを送ってほしい」という場面は、実質的に「死んだあとでは何もできない」ということを劇的に示している。私たちが愛する家族や親戚、友人に命の福音を伝えるのは「まさに今」しなければならない。死後には渡ることも下ることもできない。そしてこの世に残されている人々には、すでにモーセと預言者たち—旧約聖書、そして新約の啓示、教会の数多くの説教と教え—を通じて「十分な光」が与えられている。信じないのは証拠が足りないのではなく、心が頑なだからだ。イエス様が復活された後も、ユダヤの宗教指導者たちは信じなかった。ローマの兵士たちが空になった墓を見て驚き走ったのに、その事実を隠そうとして金で買収し、「弟子たちが遺体を盗んでいった」と嘘の報告をでっち上げた。奇跡が足りなかったわけではない。心がかたくなであったがゆえに、どんな奇跡を見ても信じなかったのだ。

だからこそ私たちも「もっと確実な徴を見せてくだされば信じます」などと言うべきではない。むしろ「聖書に記されている真理がすでに十分に証拠立てられている」という事実を認め、その御言葉を通して自分を省みて悔い改め、愛を実践することで信仰の証を立てるべきである。張ダビデ牧師がこうした観点からよく引用する箇所の一つがローマ書10章8-9節であり、「御言葉はあなたに近く、あなたの口とあなたの心にある」というものだ。神の御言葉はすでに私たちのそばにあって、その真理に口を開き心を開けば、誰でも救いに至ることができるという意味でもある。そして救われた者たちが力を合わせ、まだ御言葉を知らない、あるいは霊的に飢えている「ラザロたち」を顧みるのが教会の使命である。

ルカ16章の二つのたとえ話(不正な管理人と金持ちとラザロ)は、ともに「賢く生きる道」についてのイエス様の教えだと言ってよい。この地上で財や賜物など、何であれ任されている者ならば、いずれ決算の日が来る。さらにこの地上の生がすべてではない以上、ここでのすべての決断と行動が永遠に影響を与えることを忘れてはならない。そこにイエス様が繰り返し強調される「分かち合いの重要性」が加わり、金持ちのケースを通して警告が発せられる。「門の前にいるラザロを見捨てるな」。扉を開ければ会える多くのラザロたちに、私たちは果たしてどれだけ近づき、どれだけ実際的な助けを与えているだろうか。もし誰も門の前のラザロを助けず、この教訓を聞いてもただ流してしまうならば、結局、金持ちが受けた陰府の苦痛を逃れるのは難しいというのがこのたとえの結論である。

そう考えると、ルカ16章のメッセージは2000年前のユダヤ人だけに限られたものではない。現代の教会と信徒、そして富んでいるか貧しいかにかかわらず神を信じるすべての人に関係する。永遠と神の裁きを信じるならば、私たちが現在を見る視点は変わるはずである。この世がすべてだと考える人々とはまったく異なる価値観を持ち、異なる生き方を追求すべきだ。やがて塵に帰る肉体ではなく、永遠に主の前に立つ魂のために目を覚ましていなければならない。そして財が与えられようが、御言葉と霊的豊かさが与えられようが、私たちは「何をどう分かち合うのか」を模索し、行動に移さなければならない。これこそ現世で準備すべき最も緊急かつ重要な課題であることを、イエス様はたとえを通して力強く教えておられる。

張ダビデ牧師はルカ16章に関する説教で、「天の視点を持つ者は必然的に隣人の必要を感じるようになる」と強調する。なぜなら神の御心は常に一人ひとりの魂に注がれており、その御心を抱く者はおのずと周囲を見回さずにはいられないからだ。もしまったく周囲を顧みず、ラザロの存在を全く認識できない状態なら、それはすでに自分の心が「霊的高慢」や「無感覚」に陥っている証であり、悔い改めるべきときだということだ。金持ちは望むと望まざるとにかかわらず、死後に自分が取り返しのつかない状態にあることを直視したが、私たちはまだこの地上で息をし、他者を助けることができ、福音を伝えることができ、仕えることができる時間的猶予を持っている。この時間は長くはなく、いつか終わる。だからこそ金持ちとラザロのたとえは、私たちの残された人生に対する強い挑戦であり、同時に機会でもあるのだ。


2. 金持ちの責任とラザロの希望

金持ちとラザロのたとえをさらに拡張して解釈すると、単に物質的な金持ちと貧しい者の話ではなく、「神が与えてくださった恵みと御言葉の豊かさを持つ者」と、それを受け取れず飢えている者との構図だともいえる。それでは現代の教会や信者たちはどうだろうか。実際、今もこの地には「金持ち」と「ラザロ」が共存している。一方では豊かな御言葉、数多くのキリスト教書、さまざまなセミナーやカンファレンスを通して十分すぎる霊的糧を味わっている人々がいるかと思えば、他方では聖書一冊さえ手に入れるのが難しい地域で霊的飢饉に苦しんでいる人々もいる。あるいは都会の大型教会では華やかな賛美と力強い働きが鳴り響いている一方で、都市の周辺部や田舎、あるいは他国の荒廃した地域では依然として福音がまったく届いていない所も多い。

こうした現実に直面した張ダビデ牧師は「私たちは『霊的金持ち』であり、私たちが立ち上がって『霊的ラザロ』を助けなければ大変な問題になる」と繰り返し説く。たとえばキリスト教の宣教活動や文書事業を見ても、実際、英語圏をはじめとする西欧の教会・神学機関には数多くの書物が山積みになっている。しかしこれら宝のような資料が、霊的糧を求める人々に届く前に廃棄されたり、安値で処分されてしまうことがいくらでもある。一方でインド、アフリカ、東南アジアなど多くの国では、神学校を作っても図書館を満たす本がなく、学生たちがきちんと研究や学習を進められないと訴えている。これは何も本だけの問題ではない。物理的資源、財政、教育、医療、福祉など多様な次元で「金持ち」と「ラザロ」が共存している。

聖書的原理で見るならば、神様は人を通して働き、教会を通して愛を流される。イエス様は貧しい人々を助け、獄にいる人々を顧み、病む人々を訪ねることを非常に重要な使命だと語られた。マタイ25章に登場する羊と山羊のたとえは、「わたしの兄弟のうち最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしたのだ」という宣言に要約される。金持ちとラザロのたとえが具体的現場でどう適用され得るかを示すもう一つの例が、この御言葉だといえよう。誰かにとっては些細な分かち合いでも、それがラザロが生き抜くのに決定的な助けになるかもしれない。さらに隣人の必要を満たすことは、イエス様にするのと同じことだと聖書は語る。

この「分かち合い」が単に「自分が持っているもので不足している人を一時的に助ける」という施しの観点だけに留まってはならない。本当の分かち合いは神の御心を抱き、「この人がどうすれば完全に回復することができるのか」を考えるところから始まる。一時的な物質支援だけで終わるのではなく、福音を伝え、弟子として育て、自立できるように支援する、より広い意味での仕えが求められる。これが「魂の救いと、真に神の国を拡張する働き」である。だからこそ教会は祈りと献身、そして人を育て訓練するプロセスを同時に担う必要がある。金持ちとラザロのたとえの中で金持ちが見落としていたのは、「門の前にいるラザロの魂と肉体の両方を世話する責任」が自分にあったということだ。もし彼がその責任を自覚していたならば、単に屑を投げ与える施しではなく、ラザロの根本問題(病や飢え)を解決しようと努めたはずである。

現代の宣教や救済活動でも、短期的なアプローチだけでなく長期的な発展戦略が必要だという声が高まっている。短期宣教や救済金の支援などは重要な第一歩となり得るが、最終的にはその地域の人々が御言葉を学び、自ら教会共同体を築き、自足し、さらに他の人々にも福音を伝えられるようにする仕組みが必要だ。これこそ「賢い管理人」の態度であり、イエス様の「地上命令」(マタイ28章)に忠実な働きだと言える。張ダビデ牧師は度々「神の国の拡張は単純な教勢拡大ではなく、イエス・キリストの御言葉をまるごと伝え、それを聞いた人々が実際に変えられて、ほかの人をも仕える者へと成長していくことだ」と解説している。特に御言葉を収めた書籍や、それを学習できる教材、そしてそれを教える教師や指導者が一体となって動く必要があると言うのだ。

ではなぜイエス様はこのように「金持ちとラザロ」という、やや過激ともいえる例を用いて説明されたのだろうか。それは人間の注意をはっきりと引きつけるためである。人間が生きるなかでよく犯す失敗の一つは、「いまの生活が永遠に続くかのように錯覚すること」だ。金持ちはすでに得ている富や地位を当然のものとみなし、それを超えた霊的責任や召命を無視する。だがこの地上の財や地位は死の前では無力だ。それどころか「それを何のために、誰のために使ったか」によって、裁きの座での評価がまったく変わってくるのだ。張ダビデ牧師は「この地上で享受したものが大きければ大きいほど、神の前でどれだけ分かち合ったかがいっそう厳しく問われる」と警告しながら、私たちに「目を覚まし、施し、余裕を他者にも広げる生き方」を勧める。

金持ちとラザロのたとえがもたらす私たちへの挑戦は、単に地獄と天国という「恐怖」と「希望」の対比だけではない。それは「どうすれば私たちが霊的な金持ちになったとき、門の外にいる霊的・物質的に貧しい人々にイエス様の御心を実践できるか」という問いへと帰結する。伝統的に教会が強調してきた「愛と憐れみ」は決して抽象的な理想ではない。現実の生活や世界中の宣教現場で具体的に実践される価値なのである。私の持つパン一切れ、古着一着が誰かにとっては命の糧になり得るし、さらに福音書一冊、神学書一冊が誰かの永遠の運命を変える鍵になり得る。「愛は行動によって証明される」という有名な言葉は、まさにイエス様の教えから来ているのだ。

このたとえ話で繰り返し語られている「二つの世界(現世と来世)」に対する認識は、私たちの人生観の根本的な骨格を変える。もし死後に何もないとしたら、人々は目の前の利益や快楽を追求して生きるだろう。だが福音は「永遠」への認識を植え付け、死後に神の前に立つという畏れや敬意を持たせる。そうすることで今この地上での態度や行いが変化せざるを得ない。これは倫理や哲学の問題を超えて、「信仰」という絶対的な理由が支えている。張ダビデ牧師は説教の中で「現世の満足を超えて天国の喜びを見つめる者になりなさい」と繰り返し強調する。そうでなければ、金持ちのように「その指先を水に浸して舌を冷ませてくれ」と懇願する永遠の苦痛に陥る可能性もあるからだ。

だからこそ、このたとえ話の最終的な結論をまとめるなら、次のように要約できる。
1)この地上の生は有限であり、死後には裁きが伴う。
2)私たちがこの地上で貧しく飢えているラザロを無視するなら、それは神の御心を踏みにじることであり、最後の日に大きな叱責につながり得る。
3)すでに私たちにはモーセと預言者、また福音書や使徒たちの証言が与えられているゆえ、もはや言い訳の余地はない。
4)真の回心と仕えは、御言葉を信じ実践するなかで起こる。
5)生きているうちに決断しない限り、死後には変更の機会が与えられない。だからこそ「今」が重要である。
6)クリスチャンの豊かさは物質の有無だけではなく、霊的・御言葉的な豊かさも含む。この富は必ず分かち合いによって神の国を拡大するために用いられるべきである。
7)張ダビデ牧師をはじめ多くの霊的指導者が教えるように、「ブックストア事業」など具体的な分かち合いの場を整え、全世界のラザロたちを助けることは「福音的実践」にほかならない。

「金持ちとラザロ」の物語は、私たちの立っている現実が「永遠」とつながっていることを想起させ、私たちの生き方や態度、さらには心の動機までも神の前で点検するよう導く。私たちの財産や知識、力がただ自分の満足のためだけに使われるなら、最後の裁きの日にはそれが私たちにとって重荷となる可能性がある。一方、それらを通してラザロを生かし、神の御心を示す通路となるなら、それこそ天に報いを積む道となる。信仰生活とはただ礼拝堂に出席することではなく、「永遠」を見据えながら神の国の倫理に従って生きることである。そしてその倫理の核心が「あなたがたはただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタイ10:8)という主の言葉に込められている。

私たちが地上で直面する多くの悩み、たとえば「人生の目標」「価値観」「職業選択」「財の使い方」「時間と才能の投資」などは、突き詰めればこのたとえ話のメッセージとつながってくる。金持ちのように現世だけで満足しようとしているのか、それともラザロのように苦難のなかでも神を信頼し、最後の慰めを望んでいるのか、また自分が金持ちであるならば、目の前のラザロのために何をしているのかを、私たちは日々問いかけ応えていくべきだ。決断を先延ばしにはできない。人生がいつか終わると知っており、そして死後に待ち受ける永遠の世界を信じるがゆえに、「今日」という時が尊いのである。地上の旅路を終えるとき、アブラハムの懐へ導かれる者となるのか、陰府の炎の中で舌を冷ましてくれと嘆く者となるのか。それがルカ16章の重々しい問いかけである。

このように金持ちとラザロのたとえは、「神の国の視点」を基盤とした人生観と、その人生観に基づいて実践すべき愛と分かち合いの行動を力強く説いている。また「不正な管理人」のたとえがその直前に置かれていることで、イエス様は私たちが持っている(物質、才能、知識、霊的富など)ものを「神の国の観点」で使えという教えをさらに強調される。うわべは不正に見える方法を使った管理人ですら、「与えられた状況のなかで最大限の利益を準備した」という理由で主人に賢いと評価されたのなら、ましてや神の民は「貧しい者や力のない者を助け、福音を伝え、隣人と恵みを分かち合うこと」にどれほど積極的に取り組まなければならないだろうか。それこそがイエス様がおっしゃる「天国の知恵」であり、張ダビデ牧師をはじめ多くの説教者が教会に促していることである。

ルカ16章は「この世で富を持っているなら、その富を父の御心のように愛を実践するために用いよ。そうすれば神はその知恵をほめてくださるだろう」という主の教えに満ちている。その核心は結局、愛と憐れみ、そして天国への希望である。このたとえ話に含まれる多層的なメッセージを心に留めつつ、それぞれに任されている家庭、職場、教会や宣教の現場で具体的に適用することが私たちの課題だ。主はこう問いかけられるだろう。「わたしがおまえに与えた恵みをどう使ったのか。『門の前のラザロ』のために何をしたのか」。その日、恥じることなく答えられるように、私たちは今すぐ目の前にいる「ラザロ」を顧みなければならない。これこそルカ16章を読む読者が握るべきメッセージであり、張ダビデ牧師が繰り返し強調してきた「福音の実際的適用」なのである。

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迫害の中に咲いた福音 – 張ダビデ牧師

張ダビデ牧師が使徒の働き8章1–5節を中心に説教・講義した内容をもとに、本稿では本文が語る初代教会の歴史と福音の伝播、そしてその精神を現代教会がどのように受け継ぎ、適用できるかについて神学的・実践的考察を試みる。また、張ダビデ牧師が強調してきた「真の福音」と「歴史を貫く神の国」の視点を軸に、患難の中でも前進していく福音の力と、教会の新しい時代的パラダイムを提示したい。


1. 初代教会の迫害、散らされること、そして福音の

使徒の働き8章1–5節は、初代教会が経験した激しい迫害と、それによって教会が散らされる場面を証言している。特に使徒の働き7章で石打ちの刑により殉教したステパノの死後、教会共同体に対する大規模な弾圧が始まった。ステパノが死ぬや否や、多くの聖徒たちは激しい恐怖を抱き、エルサレム教会を対象にした過酷な迫害が起こる。そこには「使徒たち以外はみな散らされた」というほど、教会共同体は各地域へと散っていかざるを得なかった。さらに、その過程でサウロ(後のパウロ)が教会を滅ぼそうと、家々を捜し回り、男女を引き立てて牢に入れるということまでも起こった(使徒8:3)。当時迫害を受けた聖徒たちは、大洪水に流されたかのように、ばらばらに散らされるしかなかったのである。

しかし使徒の働き8章は、この「散らされること」が決して福音の後退や失敗を意味しなかったことを明確に示している。聖徒たちは各地に逃れるように身を潜めても、そこで彼らは「御言葉の福音を伝え」た(使徒8:4)。人間的に見れば「悲しみと恐れに打ちひしがれた魂たち」の移動であったが、神の視点からすれば、この出来事は福音の地境を広げる火種となったのだ。エルサレムとユダヤ地方を越え、サマリアにまで至る福音伝播が本格化し、この過程を通じて神の国はさらに広い地域へと伸びていった。

この箇所は、イエスの大宣教命令(Great Commission)をあらためて思い起こさせる。イエスは昇天の際に「あらゆる国の人々を弟子とし、父と子と聖霊の名によってバプテスマを施し、あなたがたに命じたすべてのことを守るように教えなさい」(マタイ28:19–20)と言われたが、使徒の働き1章8節ではさらに具体的に「エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となる」と明言される。初代教会の聖徒たちは、エルサレム教会が成長し、ある程度根づいた時点で、自分たちが本格的に地の果てへ出て行かなければならないという明確な使命を与えられていたにもかかわらず、しばらくは一か所にとどまって安住していた可能性が高い。ところが、ステパノの殉教と迫害によって、彼らは否応なく散らされることとなり、その結果、福音伝播の視野はエルサレムを越えて拡大されたのである。

この場面を教会史研究者たちは「サタンの逆説的失敗」と呼ぶことがある。悪しき勢力が教会を弾圧して福音を阻もうとしたが、その弾圧そのものがむしろ福音を広範囲に拡散させる結果をもたらしたからである。人間の恐れや悲劇が、神の摂理のうちでかえって救いの歴史を進展させる鍵となったのだ。これは初代教会の時代だけでなく、教会史全体を通じて何度も現れたパターンである。教会が苦難に遭うほど、福音はさらに遠くへ拡がり、聖霊の力に支えられた聖徒たちは、散らされた先で新しい教会を建て、福音を伝えた。

このような歴史的パターンは、今日においても大きな示唆を与える。迫害の程度や形は変わったが、教会が世の中で経験する困難や迫害は今なお存在する。同時に教会内部にも、歪んだ思想や福音を曇らせる異端的流れ、あるいは偏狭な教権主義や物質的・人間的欲望などが入り込むときがある。初代教会の時代には、仮現説(ドケティズム、Docetism)やグノーシス主義(Gnosticism)などの誤った思想が信徒たちを惑わせた。グノーシス主義者たちは「救いに至るには、自分の内にある神的なパーティクル(particle)を発達させ、完全な境地に到達しなければならない」と主張し、恵みと信仰による救いの福音を揺るがした。このような内部的挑戦と外部的迫害の中でも、初代教会は最終的に「正しい福音」を守り抜き、かえって全世界へと伸びていく原動力を見いだしたのである。

張ダビデ牧師は、こうした初代教会の姿に注目しながら、「教会が世から患難を受けることはあっても、真の福音伝播の使命が消えることはない」と強調してきた。牧師によると、神は教会が栄光のうちに働くこともできるが、苦難のうちにも驚くべき方法で福音を展開される。聖霊は、否応なく散らされる状況にあってさえ、各人の心に共におられ、その教会共同体が散らされた場所で新しい歴史と出会うように導かれる。そういう意味で「迫害や患難が、決して福音伝播の原動力を失わせることはない」という信念を持ち、宣教現場における挑戦や逆境を「新たな機会」と解釈し受けとめる教会論を提示している。

実際、使徒の働き8章4節、「その散らされた人たちは、御言葉を伝えながら巡り歩いた」という一節は、「散らされること」が「消えること」ではなく「拡大」であったことを明確に示している。人間の目には敗北のように見えるかもしれないが、神はこの広範な移動と再配置を通じて、さらに多くの人に福音を証しするようになさった。当時サマリア地方は、ユダヤ人が汚れた地とみなす地域であり、社会的・宗教的にユダヤと葛藤してきた歴史があった。しかしピリポがサマリアの町へ下って「キリストを人々に宣べ伝え」(使徒8:5)たとき、そこでも多くの人々が福音を受け入れ、イエスを主と告白した(使徒8:5以下)。この出来事は、地理的・文化的境界を超える福音の力を証ししている。

現代の教会も同様に、世界が急激に変化し、予期しない試練が押し寄せる時——たとえば世界的に猛威を振るったコロナ禍のような患難の時代——礼拝の形態や教会の活動が大きく制限されることがある。だが、教会が「迫害」であれ「患難」であれ、何らかの形で経験する困難を神の壮大な目的の中で見つめるならば、それは最終的に新しい形態の福音伝播と教会共同体形成へとつながりうる。

張ダビデ牧師は「教会が患難に遭って粉々に散らされるような状況にあっても、聖霊がおられる教会は決して倒れない」という確信をたびたび強調する。聖霊は人を集めてくださるだけでなく、散らすこともされる方であり、「見える教会(visible church)」と「見えない教会(invisible church)」の両方を包含される。現代教会が礼拝堂の建物や制度的枠にとどまらず、時代の変化に応じて福音をインターネットやメディアを通じて伝え、多様な文化的・社会的接点を活用して「見えない教会」を広げていく必要があるというのだ。これは初代教会の時代、聖霊が散らされた者たちと共におられ、彼らが行く先々で新しく生まれる教会を誕生させた原理と通じている。

使徒の働き8章から確認できるもう一つの重要な事実は、教会が「患難でもなければ動かない」姿があるという点についての反省である。もし迫害がなかったとすれば、安心に浸ってエルサレム教会だけに留まり続けたかもしれない。ところが神は、迫害という極端な状況を通じて聖徒たちを世界の隅々へ送り出される。この点について張ダビデ牧師は「もし私たちが喜びの歌を口ずさみつつ自発的に散らされていくなら、どんなに素晴らしいことか」とよく力説する。つまり、追い立てられるのではなく、福音の緊急性と神の国への熱情に突き動かされて自発的に出て行く「従順の子ども」となるべきだというのである。マタイの福音書21章28–30節でイエスがお話しされた二人の息子のたとえのように、口先だけで行かない息子ではなく、行動に移す者となってこそ、教会は一時的な患難にも揺るがない。

患難のときにやむを得ず身を避けるように福音を携えていくのではなく、ふだんから既に「いつ、どこにでも遣わされる準備ができている」状態であるべきだというメッセージである。パウロもまた後年、ローマ皇帝の迫害下にあってもひたすら手紙を書き教会を牧し、獄中にあってさえ福音を伝え続けた(ピリピ1:12–14)。初代教会のこのような姿は、時を経ても変わらない福音伝播の原型質といえる。

さらに、教会が文化的・地域的特性に応じて多様な形で建てられるべきだという点も注目に値する。当時サマリアに下ったピリポの働きは、エルサレム神殿を中心とする伝統的ユダヤ教慣習とは異なる、新たな文化的文脈へ福音を植えた事例である。これと同様に、パウロはガラテヤ、エペソ、コリントなど、それぞれ異なる都市・文化圏に教会を建てる際、その地に合ったアプローチで福音を伝えた。ローマ書12章、コリント第一12章、エペソ4章などでも、教会の多様性の中の一致が強調されており、各地域教会がキリストのからだとして機能しつつも、その形や構造は画一的ではない姿が示される。

張ダビデ牧師は、ポール・ティリッヒ(Paul Tillich)の名言「宗教は文化の本質であり、文化は宗教の形式である(As religion is the substance of culture, culture is the form of religion)」をしばしば引用し、「福音という本質は決して変わらないが、それを包む文化という衣装は時代や場所に応じて変わりうる」と解釈する。今のように急激にデジタル化が進む時代には、SNS、ストリーミング、オンライン・コミュニティ、ビデオ会議などさまざまなメディアが「福音を包む衣装」となりうる。福音そのものを変質させることは決して許されないが、伝播の形態や教会共同体の組織の仕方は、いくらでも異なる形を適用できるというわけだ。初代教会が使徒の働き8章以降、徐々にユダヤ・サマリアを越えて小アジアやローマに至るまで、各地域の特性を反映して福音を伝えたように、現代教会も新しいメディアや方法、さまざまな文化領域を積極的に活用すべきだと牧師は主張する。

さらに、現代教会が直面するもう一つの課題は、「個人の救い」と「歴史の救い」とを共にバランスよく見つめることである。聖書全体が証しする大きな主題は、創造、堕落(罪)、救い、そして神の国の回復である。ヨハネの黙示録21章で、すべての涙をぬぐい、死もなく、悲しみも叫びもない世界が約束される神の言葉は、「失われたエデンの園を回復するプロセス」を最終的に示している。このように壮大な歴史観をもって聖書を理解するとき、個人が救われることだけでなく、この地上の歴史に神の国が到来することを同時に夢見るようになる。

張ダビデ牧師は、このような歴史意識が現代教会でさらに強調されるべきだと語る。初代教会の弟子たちがイエスに「イスラエルの王国を再興してくださるのはこの時ですか」と尋ねたとき(使徒1:6)、イエスは「時や期は父のご自身の権威において定められている」と答えつつも、「地の果てにまでわたしの証人となれ」と命じられた。この地の歴史の中に福音が成長し、神の国は究極的に完成するという希望のうちで、教会は絶えず次世代を起こし、全世界のあらゆる民族に福音を伝えることに専念すべきである。単に教会堂の中にとどまったり、教勢拡大だけを追求するのではなく、歴史の大きな流れの中で「魂の救い」と「神の国の拡大」という目標に向かって走る共同体であるべきだというメッセージが、使徒の働き8章にも示されているのだ。

要するに、初代教会はステパノの殉教を契機に吹き荒れた大規模迫害によって聖徒たちが四方に散らされたが、この散らされることこそがかえって福音伝播への決定的な扉を開くことになった。神は反対や迫害を通してさえ、そのご計画を進めていかれ、聖霊の力によって散らされた聖徒たちの口と足、そして生活をとおして、新たな地域に福音の種が蒔かれたのである。教会は強制的に追いやられるのではなく、自発的従順と正しい歴史理解をもって喜んで「地の果て」へと進むべきである。これこそが使徒の働き8章1–5節に描かれる初代教会の姿であり、また張ダビデ牧師が常に強調してきた福音伝播の精神でもある。


2. 現代教会の挑、新たな福音播の形

使徒の働き8章を通して確認した初代教会のダイナミズムと聖霊の御業は、今日の教会にも依然として有効である。問題は、時代がまったく異なる局面へ突入しているという点だ。教会が建った1世紀の地中海世界と比べ、現代の人類は技術、文化、経済、政治、社会のあらゆる側面で想像を絶する変化を経験してきた。コロナ禍を経て、多くの教会は従来の礼拝形態や集会方式を維持できなくなり、急速にオンライン礼拝や非対面の集いを試みざるを得なくなった。ある地域では集まれない期間が長引き、教会員が教会を離れたり、信仰を失うケースも少なくなかった。一方で、「対面礼拝」に固執しすぎて社会的批判を浴びた例もある。こうした激変する環境の中で、教会がどう福音伝播の使命を引き継いでいくのかが大きな課題となった。

張ダビデ牧師は、長年にわたり世界各国で宣教と牧会活動を重ねる中で、「教会は建物から出て、人々の実際の生活領域の中へ、そしてメディアの場へと、さらに深く入り込むべきだ」と主張している。かつては「美しい足」を持って遠い国へ直接行かなければ(ローマ10:15)福音を伝えられなかったが、現代では「メディア」がその足の役割を代替しうるからだ。インターネットやSNS、モバイル端末の発達によって、教会は人が直接来なくても福音を伝えられる強力な道具を手にした。大切なのは「どのようなメッセージを、どう伝えるか」であり、そのメッセージの核はいつでもイエス・キリストの十字架の福音と神の国という不変の真理でなければならない。

実際、張ダビデ牧師は「Moving Forward」というスローガンのように、教会が後退や停滞をせず、常に前進し続けるべきだと強調する。迫害が来れば迫害の中で、患難が来れば患難の中で、平安な時期が来れば平安の中で——どのような状況にあっても教会は決して福音伝播のエンジンを止めるべきではないというのだ。一見すると初代教会のように「散らされる教会」になると弱体化するかのように思われるが、むしろその散らされることこそ「ネットワーク化」された再配置として作用する可能性がある。現代の教会は、SNSやオンライン・プラットフォームを活用して散らされつつも緊密に連結され、ちょうどエルサレム教会がステパノの殉教後に各地域へ広がっていったのと似たかたちで福音を伝えることができるのである。

この「新しい教会の形」は、単に集会をオンラインに移行するだけを意味するのではない。教会運営、弟子訓練、伝道・宣教などのすべての側面で、デジタル環境を教会本来の使命と創造的に結合する必要があるということだ。かつて初代教会が会堂と神殿、そして家庭集会など多様な形を行き来して人々を教えたように、現代教会も礼拝堂、オンライン、家庭、地域コミュニティセンターなど、さまざまな空間を活用して福音を蒔かなければならない。その過程で献金、財政運用、人材育成、聖餐や洗礼といった聖礼典の進め方など、伝統的教会が長く慣れ親しんできた要素をどう再解釈し適用していくかは、非常に神学的かつ実践的な課題となる。

張ダビデ牧師は「教会の本質に対する明確な認識」を強調する。教会の本質、すなわち「キリストのからだであり、聖霊の宮であり、世の中で神の国を証しする共同体」であるという事実をしっかりとつかんでいれば、衣装のような外形的文化形式が変わることを恐れる必要はないというわけだ。彼はこれを次のように要約する。

  1. 本質は絶わらない。
    イエス・キリストによる救い、十字架と復活の福音、聖霊の内住、神の国完成への希望など、キリスト教信仰の核心教理は時代を超えて変わらない。
  2. 形式はわりうる。
    礼拝堂中心の礼拝からオンライン礼拝へ拡張することや、日曜日一回の集会形態から平日の小グループや地域共同体活動へ広がること、あるいは教会の財政運用方式が変わることなどは、本質と衝突しない限り、すべて「文化の衣装」に属する。
  3. 順でなければならない。
    迫害があろうと患難があろうと、あるいは教会が比較的平穏で社会的信頼を得ていようと、大切なのは聖霊の導きである。聖霊はときに散らされるよう導き、ときには集まるようにも導き、「どのように、どこで、誰に福音を伝えるのか」を具体的に示される。ピリポがサマリアに導かれて福音を宣べ伝え(使徒8:5)、さらにエチオピアの宦官の車に近づいて御言葉を教えたように(使徒8:26–39)、現代の教会も聖霊の導きに沿って動かなければならない。
  4. 新時代に合った育と弟子養成が不可欠である。
    初代教会は神殿で礼拝をささげつつも、会堂で御言葉を教え、家庭や小さな集まりでも絶えず学びを続けた。ユダヤ人には子どもを教育する伝統が既に強固にあり、会堂教育が有効に機能できた。現代教会も、時代の変化に合った教育プラットフォーム、青少年・青年向けの働きモデル、オンライン聖書勉強、メディア活用などを開発しなければならない。これがなければ、急変する世の中で次世代に福音を継承することは難しい。

張ダビデ牧師はこのような原則のもと、「デザイナーやITワーカーを重んじなさい」と強調する。福音伝播の「美しい足」が、いまやITインフラとデジタル・コンテンツになりうるからだ。教会がこの「新しい足」を有効に生かすためには、それをリードする人材が必要であり、そうした人材が実力を発揮してデジタル宣教を活性化させる必要がある。クリスチャンのデザイナー、映像編集者、IT専門家、オンラインマーケターなどが教会の中で自分の才能を奉仕や宣教に結びつければ、世界中どこへでも即座に福音を届けられる窓口を開くことができる。

あわせて、彼は「教会が一つのプラットフォームにならなければならない」とも主張する。初代教会は信徒たちが財産を共有し(使徒2:44–45)、使徒の教えを共に学び(使徒2:42)、互いに助け合い、交わりをもった。今日の教会も、こうした「つながり」と「ケア」の機能をデジタル環境で実装できるようになるべきだ。オンライン・プラットフォームを通じて、信徒たちが御言葉を学び、互いのニュースを共有し、地域社会の困窮者を助け合い、個別相談や祈りの要請をできるように支援する。こうして教会がプラットフォーム化されるなら、物理的空間の制約や距離という壁を乗り越え、はるかに多くの人々に福音を伝えられ、同時に信徒間の交わりを豊かにできる。

さらに、張ダビデ牧師は教会が「神がすべての民族に与えられた救いの歴史の流れの中にある」という「歴史神学的」視点を常に忘れてはならないと説く。これは使徒の働き1章8節に語られた「地の果てにまでわたしの証人となる」という言葉ともつながる。単に地域教会だけを成長させるのではなく、地上のすべての民族と国が福音を聞くことができるよう、教会は絶えず備え、派遣されなければならないというのである。

そのために必要とあれば、教会は各国に合った「現地化された形」で建てられるべきだ。食文化、衣服、言語、インフラ環境などはそれぞれ異なるが、どの地域教会でも福音を伝え共同体を維持するために、その現場状況に合う形で適応する必要がある。これは、初代教会がエルサレム、ユダヤ、サマリア、小アジア、ローマなど、互いに異なる文化圏に合わせて教会モデルを変えたことを想起させるし、パウロがローマ市民権者でありながら同時にユダヤ人のアイデンティティも活用しつつ、幅広く福音を伝えた例を思い起こさせる。

今日ではインターネットが、こうした「多様な文化圏」を一度につなげられる画期的な通路となっている。これによって宣教ははるかに迅速かつ広範に行われうる。たとえば、アフリカのある部族の村に宣教師が直接入っていく前に、オンラインのコンテンツや通訳付きの映像を通じて先に福音を紹介することができる。または、その地の小規模共同体がオンラインで訓練を受け、共に祈りや礼拝をささげることも可能だ。これを体系的に運営するためには、教会が「デジタル宣教センター」や「オンライン・ミッションスクール」のような組織を設け、教職者や宣教師を訓練しなければならない。張ダビデ牧師は、これを「新時代への道を備える教会」と呼び、「まもなく夜明けが来る」という確信のもと、教会が先んじて動くよう促している。

また彼は「終わりの日に福音が地の果てまで宣べ伝えられるプロセス」への積極的な参加の必要性を、絶えず提起する。初代教会以来行われてきた福音拡大がまだ完成していないこと、多様な障害と霊的戦いが残っていることを認めながらも、聖霊は教会を通じて働き続け、神の定めた時が来れば「すべての国の民に対して証しのために、まず福音が宣べ伝えられねばならない」(マルコ13:10)との御言葉のとおり、歴史的使命を担うことになるという見通しを示す。

結局、初代教会が有していた霊的DNA――迫害や患難を恐れず、むしろそれを福音拡大の足がかりとした不屈の信仰、文化や地域の境界を超えて喜んで散らされていった宣教精神、聖霊の導きを絶対的に信頼した従順――が、現代教会にも必要だという結論に至る。張ダビデ牧師は、このDNAを現代的に再解釈し、メディアやIT技術、オンライン・ネットワーク、さらには時代的文化トレンドを積極的に活用して全世界へ出ていく教会の形成を呼びかける。

肝心なのは「正しい福音」と「真の教会論」を堅持することである。いくら最新の技術やプラットフォームを用いても、福音そのものが曖昧になったり真理が歪められたりすれば、教会のいのちは失われる。逆に、福音の核心がしっかり立ち、教会の本質を守りながら、時代の変化に柔軟かつ巧みに対応し、多様な宣教活動を試みるならば、初代教会の「散らされながらも前進する教会」が現代にも力強く再現されうるのだ。

張ダビデ牧師は、教会が「刈り取りの時」を迎えているとよく口にする。多くの人々が精神的・霊的な渇きを覚え、人生の意味を求めてさまよう時代であるからこそ、教会が正確で温かい福音を提示すれば、多くの魂が帰ってくるという確信を持っている。使徒の働き8章8節以下で、ピリポがサマリアで多くの人を癒し福音を伝えたとき、「その町には大きな喜びがあった」と記されているように、このように喜びのない世に喜びがもたらされ、絶望にあるところに希望がもたらされることこそ福音宣教の核心であり結実である。

一方、教会がこのように「散らされる教会」かつ「ネットワーク教会」へと変貌していく過程では、内部的にさまざまな挑戦がついてまわる。既存の制度的教会内部でこうした変化を好意的に見ない向きもあるだろうし、物理的礼拝堂と共同体性を重視する伝統的信徒との衝突が起こるかもしれない。オンラインで聖餐や洗礼を行う問題、職分の任命や牧会的な戒規をどのように行うかなど、神学的議論もまだ十分に整理されているわけではない。それでも、張ダビデ牧師は「福音のため、そして神の国のためにこれらすべての議論を経ながらも、最終的には前進すべきだ」と強調する。

彼はこの状況を「エルサレム教会とサマリア、さらにはアンティオキア教会が直面した試行錯誤の現代版」と呼ぶ。ユダヤ人中心の初代教会が異邦人へ福音を伝えるなかで直面した文化的・神学的・実践的葛藤(使徒10章、ガラテヤ2章など)を思えば、教会の歴史はいつでも自己刷新と拡大を通して成長してきた。教会はキリストが再臨されるその時まで「完成された姿」で留まることはなく、不断に自らを改革し、福音の地平を広げていかなければならないのである。

結論として、使徒の働き8章1–5節に示される初代教会の「散らされつつ福音が拡大する」姿は、現代教会が進むべき道を照らす力強い灯火である。そしてその道にはいつも聖霊の御力が伴い、神は神の歴史を導いておられる。教会が聖霊に従って集まるときには集まり、散らされるときには散らされる。これを現代に適用するとき、「見えない(invisible)教会」と「見える(visible)教会」が同時に作動する時代的教会論が可能となる。また、個人の救いだけでなく歴史の救いを夢見る大きな視野の中で、この世の流れを聖書的視点から捉え、神の摂理に合わせてあらゆる国々へと進む「メディア時代の宣教」が大きく花開きうる。

張ダビデ牧師の提示する方向性は、要するに「状況に縛られず、むしろ状況を逆手にとって福音拡大を成し遂げよ」というメッセージに集約される。これは初代教会が迫害を「前進のきっかけ」としたように、現代教会も疫病や社会的制約、文化的偏見や不信の中であろうとも、なお「Moving Forward」し続けなければならないという意味である。聖霊は今も生きておられ、教会を通じて働かれ、失われた魂を捜し求める神なる御父の御心をすべての民族と列邦に示してくださる。教会はその招きに応え——散らされようとも集まろうとも、オンラインであろうとオフラインであろうと——絶えず福音を語り分かち合うべきなのだ。

使徒の働き8章でステパノの死を悼む大きな嘆きの後にも、ピリポがサマリアへ下り福音を宣べ伝えて喜びをもたらしたように、現代教会もむしろ困難な時代のただ中でこそ、喜びと希望のメッセージを証ししなければならない。目に見える迫害や患難が大きいほど、聖霊の臨在と御力はより力強く働きうることを思い出そう。だからこそ私たちはこの地上で巡礼者として生きながらも大胆になることができ、どのような形であろうと教会を存続させつつ福音を拡大していけるのである。そしてこのすべてのプロセスの背後には、初代教会の時代と同様に変わらず働かれる神がおられ、その神は張ダビデ牧師をはじめとするすべての福音の働き人に「行け、そして宣べ伝えよ」と命じておられる。迫害や患難によってではなく、愛と従順と喜びの原動力によって自発的に進んでいく教会でありたい。そうして韓国教会、世界の教会が使徒の働き時代のようなリバイバルと躍動感をもう一度回復し、「エルサレム、ユダヤ、サマリア、そして地の果て」に至るまで主の証人となる使命を全うすることを願う。


本稿の核心は、「初代教会の歴史を通して見る福音の拡大と、現代教会が直面する変化、そして張ダビデ牧師が強調する正しい福音と新しい教会のパラダイム」である。初代教会は迫害の中でも散らされることが福音拡大のきっかけとなり、聖霊の導きによってどこであっても神の国を伝えた。現代教会はまったく次元の異なる挑戦に直面しているが、依然として同じ聖霊と同じ福音を握っている。張ダビデ牧師はこの点を強調しながら、「教会はいまの時代に合わせて柔軟かつ力強く拡張していくべきだ」というビジョンを提示する。これこそが使徒の働き8章を詳しく読み解くことで得られる真理であり、私たち信仰共同体として実践すべき明確な方向性である。

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